もちろん、私がそういう表現に抵抗のある第一の理由は、自分の持っている「勇気」というものを(そのままそっくり、あるいは部分的に、あるいは増殖して)人にやったり、もらったりはできないし、「元気」も同様で人と人との間でやりとりは出来ないから、ということです。
「元気が出る」とか「勇気が湧く」とは言いますが、「分ける、与える」とか「もらう」とは私は言ったことがないし、これから言うことはないでしょう。
もちろん、他人とか人の話とかをきっかけに「元気が出る」というようなことはあります。そういう場合は、「○○さんの話を聞いて、元気が出た」と言います。「○○さんの話が私に元気をくれた」「○○さんの話から私は元気をもらった」とは言いません。
私と同じ、アンチ"元気もらう"派の人もたくさんいることが分かります。
例えば、
「勇気をもらった」に感じる違和感、使うメディアの責任感はいかに 梶原 しげる
に、よくまとめられていると思います。
違和感を感じる人がたくさんいる一方で、「もらう」「与える」がいつの間にかたくさん使われるようになったのはなぜなのでしょう。
この点について、上の記事の5〜6で、なるほどと思わせる説明があります。
先生「オリンピックで盛んに耳にされたでしょう。<勝ちに行く><結果を出す」><走りにキレがある>」<後半の泳ぎが鍵>という言い回し、どう思われます?」
梶原「漠然と聞くとごく自然に受け止められますが、改めて考えると引っかかりますね。
危ない橋を渡りたくない人、官僚や政治家で、無難な事しか言わない人は常套句を多用する。意味を持った言葉と言うより<記号>ですね。だからこそ、リスクを取りながらも、記号ではなく、自分の言葉で話そうとする政治家には人気が集まる。良い悪いは別ですよ。
<元気をもらった>という、記号化された常套句は、事を構えたくない、恥をかきたくない、と言う場合に便利です。街頭インタビューに答える人たち。質問を吟味する時間も与えられずに答えを急かされる人たち。無難にやりこなすには、無難な言葉が一番です。そういう会話を言わせて、集めて、たれ流すのは何処ですか?」
その通りかも知れません。さらに遠慮なく言えば、簡単な表現力でさえ不足して、記号化された常套句でしか言えないのではないか、と思います。
とは言え、「○○さんの話から私は元気をもらった」だって常套句的な、ありふれた表現ではあります。
さて、冒頭のTシャツだけでなく、そこに書かれた文言を私は初めて目にしました。
ドラゴンボールの名前は知っていても、そのマンガを1話だけでも見たことがありません。実はこのマンガの中には次のようなセリフが出てくるそうです。
マンガを全然見ていないので、はっきりとは言えませんが、「元気玉」を「元気」と言い換えたり、「元気」と「元気玉」の境界線が曖昧になってしまったのではないでしょうか。
「勇気をもらう」の使用頻度を調べた人がいます。(「勇気はもらえるか」)
良い悪いの問題ではなく、これも時代による言葉の変化と言えば、それだけのことです。
ただ、私にはさらに2つ、気になることがあります。
1つ目。人によっては、元気や勇気を「やる」「もらう」と繰り返し言うことで、あるいは周囲から繰り返し聞くことによって、勇気や元気は自ら湧きだたせるものではなく、人からもらうもの…という意識を持つようになってしまうのではないかということです。考えすぎでしょうか。
2つ目です。「勇気」という言葉の使い方です。
「勇気」というのは、怖いものに対して向かっていこうという気持ちであると思います。
ところが、例えば「自分自身の弱さに負けそうなときに"勇気をもらった"」という表現を聞くことが少なからずあります。あるいは、漠然と(元気のない自分が)「勇気をもらった」という場合もよく聞きます。
これが、どうしてなのか分かりません。
これら2つの心配や疑問は解決していませんが、私一人で「何だ、この言い方は!」などと腹を立てているのではないことが、WEBの多くの声を読むことから分かり、「勇気を」…、いや「元気をもらいました」。(笑)