これらならば買ってもいいかなと思いましたが、すでに落札済みです。考えることは誰でも同じですね。
最初の2ページの記述内容です。
突然の訃報に世界が泣いた
あれから20年の時が流れて
没後20年メモリアルカラー
歌姫は永遠に
テレサ・テン
『つぐない』『愛人』『時の流れに身をまかせ』……
彗星の如く現れ幾多の名曲を残して
この世を去った伝説の歌姫。
深い哀愁と愛をたたえた歌声は
時を越えて日本人の心に流れ続けている。
'95年5月8日、静養
先のタイ・チェンマ
イで急逝、気管支喘息の
発作が死因と発表された。
「訃報が届いたのはま
さに新曲『泣かないで』
が出来上がった時。不思
議にも、僕は『忘れない
でわたしのことを』『もう
夢の中しか会えないかしら』
と死を予感させるよ
うな歌詞を書いていたの
です」(前出・荒木氏)
歌と生き、歌と去った
42年の生涯だった。
(写真左左説明)
'74年東京表参道にて日本でのデビュー時はアイドル歌手として売り出した
(写真左上説明)
'84年の『つぐない』から3年連続で日本有線大賞受賞の偉業を成し遂げた
(写真右上説明)
上/台北市の金宝山にあるテレサの墓は、いつも歌声が流されている。
(写真右右説明)
右/'74年、日本デビューした頃、神宮前の自宅でくつろぐ。当時に21歳
(写真右下説明)
↓没後20年を迎え、新たなアルバムが発売された
ディスコグラフィー
テレサ・テン 42年の生涯
1953年 1月29日/台湾に生まれる
1967年 14歳で歌手デビュー、天才少女と注目される。
1974年 『今夜かしら明日かしら』で日本デビュー、21歳。
『空港』で第16回日本レコード大賞新人賞受賞
1979年 偽造パスポート事件で国外退去処分を受ける。
1984年 再来日が許可される。
『つぐない』で第17回日本有線大賞受賞。
1985年 『愛人』で第18回日本有線大賞受賞。
1986年 『時の流れに身をまかせ』で第19回日本有線大賞。第20回日本レコード大賞金賞受賞
1987年 『別れの予感』で第20回日本有線大賞有線音楽賞受賞。1988年 『恋人たちの神話』
1989年 『悲しい自由』
1990年 涙の条件
1991年 悲しみと踊らせて
1993年 あなたと共に生きてゆく
1994年 夜来香
1995年 5月8日/静養先のタイ・チェンマイで喘息の発作により急逝。享年42歳。
画像提供/マガジンハウス、産経ビジュアル、ユニバーサル・レコード、財団法人ケ麗君文教基金會、近代映画社 撮影/西峰達也
作詞家が明かす
歌に込められたテレサの人生
<右ページ、上から>
--------------
つぐない
('84年)
--------------
愛をつぐなえば 別れになるけど
こんな女でも 忘れないでね
優しすぎたの あなた
子供みたいな あなた
あすは他人同志になるけれど
--------------
別れる理由を明確にせず、聴き手が様々な解釈ができ
るような歌詞にしました。彼女の甘く切ない声が、主
人公の愛の深さを表現しています。(荒木氏談・以下同)
(写真右右説明)
'85年、NHKホールのコンサートで熱唱するテレサ→
--------------
愛人
('85年)
--------------
尽くして 泣きぬれて そして愛されて
時がふたりを 離さぬように
見つめて 寄り添って そして抱きしめて
このまま あなたの胸で暮らしたい
--------------
後ろめたさが漂うこれまでの愛人観とは一線
を画した曲です。「尽く
して〜」というサビは、
人を愛するということは自由
だという、テレサのよ
うな自立した女性をイ
メージして書きました
(写真右下説明)
←
'85年、『愛人』のヒット
で紅白歌合戦初出場。
同じく初出場の吉川
晃司(左端)、石川秀美
(右端)らと
「テレサの歌声には、
自身の人生や経験
から来る「想い」が宿って
いました。彼女の歌が国
境を越えて人々の心の琴
線に触れるのは、その表現
力あってのことでしょう」
テレサのヒット曲の多
くは、荒木とよひさ作詞、
三木たかし作曲の名コン
ビによって生み出された。
その荒木氏が、彼女の歌
唱力を振り返る。
「『時の流れに身をまかせ』
では『もしもあなたと逢
えずにいたら』というフ
レーズで、運命的な出会
いを表現しています。こ
の部分を歌う時、テレサ
は数奇な歌手人生を歩む
中で出会ってきた人々の
顔を思い浮かべていたの
ではないでしょうか。
このように思いの深さ
を歌に込め、表現する。
そして日本人歌手よりも
日本人らしく、美しい発
音で、語尾まで丁寧に歌
い上げてくれたのです」
<左ページ>
--------------
時の流れに
身をまかせ
('86年)
--------------
もしもあなたと 逢えずにいたら
わたしは何を してたでしょうか
平凡だけど 誰かを愛し
普通の暮らし してたでしょうか
時の流れに 身をまかせ
あなたの色に 染められ
一度の人生それさえ
捨てることもかまわない
だから お願い そばに置いてね
いまは あなたしか 愛せない
--------------
曲のクライマックスが「そばに置
いてね」。破裂音の「ば」が愛の高
揚感を高め、緩やかに「いまはあな
たしか〜」と下っていく構成をテ
レサは情感たっぷりに歌いました
(写真左上右説明)
この歌は3度目の日本有線大賞に→
--------------
別れの予感
('87年)
--------------
教えて 悲しくなるその理由
あなたに触れていても信じること
それだけだから
海よりもまだ深く
空よりもまだ青く
あなたをこれ以上
愛するなんて
わたしには 出来ない
--------------
題名のテーマ「別れ」という言葉
は、いっさい詞の中に入っていま
せん。「あなたをこれ以上愛するな
んて」と歌うテレサの声には、別れ
への不安や切なさが滲んでいます
(写真左下右説明)
←ミステリアスな歌詞が人気となった
<左頁コラム>
Column 1
--------------
「日本の父さん」
来日と挫折秘話を語る
元トーラスレコード社長 舟木稔
--------------
(写真左左説明)
'91年、香港を訪ねた舟木氏とテレサ
猛反対する父親を口説いてテレサを来
日させたのですが、デビュー曲『今夜か
しら明日かしら』は、不発。「私の日本語
の歌い方が悪かった」と頭を下げた彼女
の悲しい顔は、今も忘れられません。
2曲目の『空港』もアイドル歌謡にす
る予定でした。ところが彼女の声に惚れ
込んだディレクターが「演歌調がいい」
と熱心に提案し、方針転換したところ大
ヒット。日本レコード大賞新人賞を受賞
した瞬間は、「あなたに任せる」と言ってく
れたテレサの父親の顔が浮かびました。
(2枚の写真左下説明)
アイドル路線でデビ
ュー。台湾では大ス
ターだったが、日本
ではゼロからのスタ
ートだった。雑誌の
撮影で、浅草にて
<右ページ>
人々を魅了した
切なく愛らしい歌声の秘密
男がグッとくるアジア的甘え声
演歌歌手 八代亜紀
テレサと初めて会ったのは、
'74年のレコード大賞のステー
ジ。彼女が、初めてのヒット
曲『空港』で新人賞を受賞し
た時です。その後も、テレビ
の仕事で何度も一緒になりま
した。当時の楽屋は個室では
なかったので、よく話をしま
したよ。彼女はまだ日本語に
慣れていなかったけれど、聞
き上手な人でした。
テレサの曲は非常に歌いや
すい音域で作られているので、
カラオケでも人気があります。
だけど、日本人が真似できな
い、可愛らしい独特な声で歌
うから、こんなにも心をくす
ぐられる。ちょっと鼻にかか
った、甘えているような声音
が、男性はたまらないんじゃな
いかしら(笑)。私は'93年に
『時の流れに身をまかせ』を
カヴァーしましたが、この歌
を歌った時は『八代演歌』の
男っぽさを抑えるよう心掛け
ました。
今年、台湾で
開催予定のコン
サートでは、思
い出の『空港』
を歌いたいなと
思っているんで
す。
(写真右上左説明)
第●●回レコード大賞予選会で、記念撮影するテレサ(右上)と八代(左下)
(写真右中右説明)
『時の流れ〜』は紅白で2度歌った
いくつになっても
変わらない声音
歌手・作曲家
「アリス」メンバー 堀内孝雄
テレサさんの声の特徴は、
何と言っても透明感。悲しい
歌でも、絶望的に感じさせな
いのです。
私の『愛しき日々』をカヴ
ァーしていただいた時も、自
分が歌うのとは全然違う曲に
なっていた。これはドラマ「白
虎隊」の主題歌にもなった悲
壮な調子の歌。しかし、彼女
が歌うと自然体で力みがなく、
どこか凄い。この絶妙な歌唱
センスは天性のものでしょ
う。性格も歌声同様、肩肘張
らず、ナチュラルでした。
声質は年齢や体調によって
変化するものですが、テレサ
さんの歌声はいつ聞いても変
わらなかった。どんなに忙し
くても、声の管理を欠かさな
かったそうです。本当に音楽
を愛した彼女だからこそ、今
の時代ならどんな歌をどんな
ふうに歌うのか、聞いてみた
かったですね。
(写真右中左説明)
互いの曲をデュエットしたCDも作った
(写真右下左説明)
'87年には歌番組でデュエットも
<左ページ>
素顔の「ケ麗君(デン リー ジュン)」 情熱と根性の塊だった
時に燃えるような
愛国心を見せた
歌手・女優 早見優
「あなた英語が話せるのね。
お友達になりましょう」
当時20歳で、同じレコード
会社に所属していた私に、テ
レサさんから声をかけてくれ
ました。
会話はいつも英語。一緒に
食事に行くと、祖国・台湾の
政治の話を熱く語っていまし
た。愛国心が強く、情熱的な
一面を持った人でした。
今でも鮮明に覚えてるの
が、編み込みヘアにウェディ
ングドレスを着て歌っている
姿です。この衣装はスタッフ
から不評だったみたい(笑)。
でも、彼女は気にすることな
く自分のスタイルを貫きまし
た。斬新で、ワイルドで、芯
がある強い大人の女性。私も
こうなりたいと、ずっと憧れ
ていました
(写真左上説明)
所属レコード会社のメンバーと、右からテレサ、早見、水越けいこ、丸山圭子
(写真左中左説明)
二人は姉妹のような関係だった
レコーディングは
全曲アナログ
レコーディングディレクター 福住哲弥
「やっと歌がわかってきたわ」
『つぐない』『愛人』のヒット
を出した頃、30歳になったテ
レサは、そう言って私に微笑
みかけました。今振り返れば、
歌手として最も充実していた
時期で、自信に満ちていまし
たね。
約250曲手掛けたテレサ
の歌は、すべてアナログでレ
コーディングをしました。彼
女の深みや柔らかさのある歌
声は、デジ
タルでは表
現できない
と思ったか
らです。
『時の流れ
に身をまか
せ』のレコ
ーディング
は一発O
K。その直
前、テレサ
はホテルの
プールで泳いでいました。も
ちろん、遊んでいたわけでは
ありません。体をほぐしたほ
うが発声しやすいという理由
です。プロ意識が非常に高く、
海外の一流のボイストレーナ
ーを訪ねては、もっとうまく
なりたいと指導を受けていま
した。国境を越え、アジア中
で人気を博してもなお、歌う
ことに対してストイックな姿
勢を貫き通していました。
(写真左中左説明)
レコーディングが終わるとスタッフ全員で食事を楽しんだ。右から3人目が福住氏
(写真左下右説明)
ロンドンのレコーディングスタジオにて
<右ページ>
秘蔵写真で辿る
アジアの歌姫が歩んだ道
(写真右上左)
↑'77年、新曲のプロモー
ションキャンペーンで
競輪の中野浩一選手と
(写真右上右)
→レコ大新人賞を受賞し
た翌'75年正月、晴れ着で
餅つきに挑戦した
(写真右中)
'85年「ペントハウス」
誌のグラビアを飾る。
「小●●や舘ひろしが
好みの男性のタイプ」
(写真右下左)
↓香港の邸宅街にある自
宅。寝室は大好きなピン
クを基調にしていた
(写真右下右)
↑'83年、香港公演で
は、10万人を動員し、
アジアのスターを証明
<左ページ>
(写真左上中)
↑30歳頃、香港でマ
ネージャーらと船上
ディナーを楽しむ
(写真左上右)
→'74年、デビュー前
に来日し、大阪城や京
都の自車を見物した
(写真左中中)
↑'84年、約2年ぶりに
来日し、ミニスカ姿を披
露して話題をさらった
(写真左下中)
↓東京にあった自宅
は、西洋風の瀟洒な
マンションだった
(写真左下右)
↑新北市郊外の自宅に
て、親族の子供をよく
可愛がっていたという
Column 2
--------------------
テレサが愛した
「所縁の地」を
訪ねて
--------------------
コープオリンピアアネックス
--------------------
表参道の高級マンションで、母親と
暮らした。スタッフを招待し、
母親の手作りの水餃子を振る舞った
センチュリーハイアット
--------------------
現在の「ハイアットリージェンシー
東京」(新宿)。屋内プールがお気に
入りで、泊まるたびに泳いでいた
●●●
--------------------
××終わると、来日した台湾の家
××本木「●●●」で、好物のし
××ゃぶを食べるのが恒例だった
-------------------
追記(2020/04/03)
裏写りをしているものの、ぐっと大きく文字も良く読める画像がありました。
【テレサ・テンの最新記事】
- テレサ・テン急逝〜雑誌等の記事(98)
- 日本デビュー時のライバル〜雑誌等の記事(..
- 加納典明の撮影〜雑誌等の記事(97)
- 「週刊朝日」1984年3月16日号〜雑誌..
- 「週刊明星」1975年3月30日号の記事..
- 1981年「銀幕」〜雑誌等の記事(94)..
- どうして?
- この『空港』の出所が分かった(2)
- この『空港』の出所が分かった(1)
- 「アクトレス」1984年5月号〜雑誌等の..
- 「新女性」1970年第11期〜雑誌等の記..
- 「ピットイン」1976(昭和51)年3月..
- ヤクルトホールコンサート〜雑誌等の記事(..
- 「殺されたって私は怖くない」〜雑誌等の記..
- 水着の表紙〜雑誌等の記事(88)