テレサ・テンのことを調べている過程で、「中村とうよう」氏がしばしば、しかも重みをもって登場します。実は、ポピュラー音楽界では(皮肉な意味ではなく)重鎮だったと、今日になって知りました。
今回のブログ記事でも、「中村とうよう氏の投稿」なんてタイトルを付けましたが、ミュージックマガジンそのものが、中村氏がやっていた雑誌だったとのことです。
記録として残すために、雑誌をバラして、きれいにスキャンできるようにしました。
さて、今日の読み取りです。
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半年くらいでやめて、歌手になりました。
――子供のとき誰か歌というか、音楽を教え
てくれる人が、まわりにいたんですか。
民族楽器の先生はいたけど、特に歌の先生
という人は、いません。歌はラジオ聞いたり
レコード聞いたりして自分で憶えました。
――最初の話にもどるけど、10歳のころラジ
オのコンテストで優勝して、それからあ
ちこちで歌うようになったわけですね。
あちこち、コンテストに出たり…。12歳の
ころに台湾電視というテレビによく出るよう
になって、14歳のころ、中国電視というもう
ひとつのテレビの専属になりました。レスト
ランとかキャバレーでもよく歌いました。レ
ストランに日本の観光客がたくさん来るんで
す。そういうお客さんがいるときは日本の曲
を歌うんです。例えば「骨まで愛して」とか
ね。そういう歌、台湾でハヤってましたから
ね。ステージでは、そのときにハヤってる曲
やラジオでかかった曲、何でも歌いました。
勉強、勉強ですから。歌が好きですから。
――すごい吸収力を持ってたんですね。
そうですね。
何でも歌っていた宇宙レコード時代
――レコードは最初が台湾の宇宙レコードで
すね。67年から71年までだと思いますけ
ど。最初に出した曲は何ですか。
最初はね、オリジナルじゃないんです。L
Pで「何日君再来(ホーリーチンツアイライ)」とか、ほかにも30年代、40
年代なんかの古い中国の映画の主題曲とか、
そういうのが入ってたんです。
――「何日君再来」をデビュー・アルバムで
歌ってたなんて、知らなかったな。この
曲を最初に映画で歌った周璇って人、ご
存じですか。
はい。もうー、とてもすばらしい、人間じ
ゃないみたいなきれいな声の人。私、ファン
だから周璇のカセット、全部持ってるんです
よ、勉強にもなるから…。
――じゃあデビュー・アルバムは割と中国っ
ぽい曲ばかり歌ってたんだ。ある人がぼ
くに 「晶晶(チンチン)」という曲がデビュー曲だと
教えてくれたんですけど…。
あ、それも言えますね、オリジナル曲とし
ては確か最初だから…。あれは台湾のテレビ
連続ドラマの主題歌で、私ともうひとり有名
な歌手と、両方が歌ったんです。それで私の
ほうが若くて、ドラマの主人公の年齢と合っ
てるから、私のほうをテレビで使ったんです。
――それから外国の曲も宇宙にずいぶんいろ
いろ吹き込んでますね。ぼくは宇宙の原
盤は持ってなくて、歌聞という会社なん
かのカセットで聞いてるんだけど、例え
ば『中詞西曲』というカセットの曲目は
「ケ・セラ・セラ」「トゥ・サー、ウィズ
・ラヴ(いつも心に太陽を)」「16トン」
「ティンタレラ・ディ・ルナ(月影のナ
ポリ)」「キエン・セラ」…という具合に
アメリカやイギリスのヒットからカンツ
ォーネやラテンまで入ってる。「トゥ・サ
ー…」は英語で歌ってるけど、とても発
音がいいですね。
好きな曲で、ずっと聞いてたから、憶えち
ゃった。コピーですよ。
――それから、韓国の「黄色いシャツ」なん
かも入ってるけど、そのころ韓国の曲が
台湾でも聞かれてたんですか。
みんな聞いてましたよ。韓国の映画も入っ
て来たし。ほかにも街でハヤってた韓国の曲
がありましたよ、映画の主題歌で…。
――そうかあ。日本人が韓国の歌を聞くよう
になるのはずっと後だし、普通に映画館
で韓国映画をやるなんてことはなかった
けど、日本人が知らないところで韓国と
台湾の大衆文化の交流があったんだね。
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ところで、こんなにいろいろな曲、レコ
ード・プロデューサーがこの曲を歌いな
さいって言えばすぐに憶えて何でも歌っ
ちゃったわけなのかな。
あのころはレコードに吹き込む前にレスト
ランでいろいろ歌ってたしね、言われた曲は
何でも歌っちゃった。そのころ台湾って、著
作権もなかったですから。
――「長崎は今日も雨だった」の中国語版な
んかも宇宙に録音しましたね。日本の曲
で最初にレコーディングしたのは?
たぶん「四個願望」じゃないかな。ちあき
なおみさんの「四つのお願い」です。ちあき
さんの「X+Y=LOVEも歌ってます。
――宇宙には4年ほどの間にどのくらい録音
したんですか。
LP10枚以上ですね。20枚近くあると思う
わ。
――69年か70年ごろ映画の主演作品も撮って
ますね。
ええ。『謝謝総経理』ですね。全然わけがわ
からなかった。あれから映画こわくて…。こ
の映画も宇宙が作ったんですけど、お金もか
けない、ムチャクチャな映画。そのあとは公
演するとき、いつも映画を写してそのあと私
が歌う。それでたくさんお客さんが入ったん
です。
台湾のスターからアジアのスターへ
――台湾から外に出たのは、最初どこですか。
シンガポールに69年に行ったのが初めてで
す。すぐあとで香港にも行きました。香港で
テレビのヴァラエティ・ショウに出ました。
あとマレイシア、フィリピン、インドネシア、
タイなんかに行きました。70年代の初めご
ろ。
――マレイシアやシンガポールは中国系の人
が多いわけだけど…。
フィリピンなんかも中国人のレストランで
歌います。英語の曲も歌うし、福建語や広東
語や、いろいろ…。
――レコードは台湾の宇宙との契約が終わっ
最初の2ページの画像がよろしくないので、スキャンし直したものを、ここに置きます。
中村とうよう氏の投稿〜雑誌等の記事(41)-1
中村とうよう氏の投稿〜雑誌等の記事(41)-2
中村とうよう氏の投稿〜雑誌等の記事(41)-3
中村とうよう氏の投稿〜雑誌等の記事(41)-4
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