2021年11月26日

03 TOKYO Calling ゼロサン〜雑誌等の記事(28)

 以前2回にわたって、記事を紹介した「03 TOKYO Calling ゼロサン」の「テレサ・テン」の特集記事ですが、文字化したのは、記事前半の1ページだけで、しかも読み取れない部分がありました。

ゼロ3-04.jpg

 忘れていたのですが、その後この雑誌を購入したのに、デジタル化を忘れていました。
 これで、完全に読み取れます。

 まず、前回読み取れなくて伏せ字(?)にしていた部分を補い、また文字の間違い(中には「歌手」とすべきところを「選手」となっているところもありました。)を赤字で示します。


テレサテン
アジアの歌姫、流浪のスーパースターの遠い道のり

-------------------------
日本で、中国で、台湾で、ベトナ
ムで、国境を越え、イデオロギー
を超え、そして言語までも越えて
テレサ・テン(ケ麗君)の歌は
人々に愛されている。ワールド・
ミュージックブームと言われて
いる昨今だが、その元祖とも言う
べき成功例が実は身近にあったの
だ。ふたつの祖国、台湾と中国の
政情の変動に翻弄され続けたスー
パースターの肉声をリポート。
弓狩匡純=文/松本康男=写真
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 中華人民共和国製の寒暖計は、摂氏36度を示
したまま、悠長に午睡を決め込んでいた。ベト
ナム南部・ホーチミン市、千紫万紅の如く路肩
にしゃがみ込んだ露天商たちが、勢い良く往来
を駆け抜けるシクロと名付けられた人力車に煽
られ僅かに活気を取り戻す。かん高い罵声が暫
し飛び交い、乳飲み子の泣き声がその後を追う。
静から動へ、喧騒が倦怠に取って代わり、澱ん
だ大気がのっそりと寝返りを打つ南国特有の営
みが、あの日も飽きることなくただ漫然と繰り
返されていたに過ぎなかった。
 4年前のことである。初めてこの地を訪れ、
チョロン地区と呼ばれる中国人街をこれといっ
た目的もなく彷徨い歩いていた私の眼差しは、
闇市の片隅に並べられた一巻のふるぼけたカセ
ット・テープに釘付けとなった。「ケ麗君・影
視名曲精選」。
「その歌い手ならば絶対にお勧めだよ。それに
このテープはここら辺じゃあ絶対に手に入らな
い貴重品だからねぇ。3ドルでいいよ。あんた
日本人だろ。おまけして2ドルならどうだい?」
 数メートル先で井戸端会議に頭を突っ込んで
いた白髪の老婆がいつの間にか私の背後に擦り
寄っている。隣国タイの通貨である70バーツと
いった値札が張られたままになったその粗末な
ジャケット写真には、真珠のピアスを身に付け
た色白の美女が艶然と微笑む姿が映し出されて
いた。ケ麗君ことテレサ・テン。全曲北京語で
綴られた彼女のベスト・アルバムが、西側諸国
からの経済封鎖に苛まれ、世界最貧国の烙印を
押されてしまったこの国の店先をも、淡々と飾
っている。
“何故あのテレサの作品が社会主義国であるベ
トナムに?”
 東アジア全域で圧倒的な人気を誇り、今や伝
説の域にまで達しつつあるアジアの歌姫、ケ麗
君との偶然とも言える邂逅は、むせ返るような
タマリンドウの芳香と共にそれ以来、私の脳裏
に焼き付いたまま決して離れることはなかった。

難民、異邦人(エトランゼ)、スーパースター

 東京・ホテルオークラの壁時計は、既に午後
8時を指していた。静まり返ったロビーで息を
潜めながら商談に勤しむビジネスマンの群を
尻目に、私は約2年振りの来日を果たしたばか
りの彼女が起居しているという階上の一室へと
歩を進める。

「はじめまして」
 滑らかな音色を伴って、華奢な右手が私の目
の前へと差し出された。
「パリに移ってから、もう1年カ月になりま
す。最初はろくに言葉も話せなかったので心細
い思いもしましたけれど、今は大分慣れて来ま
した」
 スッと背筋を伸ばし、身じろぎもせずに耳を
傾けているテレサの横顔には東南アジアの美
空ひばり≠ニ言った仰々しい形容が何処かそぐ
わない、まるで新人歌手を思わせるような清冽
な気品が満ち溢れていた
何故このテレサの作品がアジアで数千万枚も
売れ続けているのだろうか?
 羽毛の如く軽やかな彼女の立ち居振る舞いを
目の当たりにして、私の胸中に去来する素朴な
疑問はより一層深まって行かざるを得なかった。
「ある意味では私も難民と立場は同じです。長
い間香港を拠点に活動を続けて来ましたが、天
安門事件以降は'97年に予定されている中国への
香港の返還を、ただ座して待つべきではないと
思い立ち、勉強をするためにフランスへ渡った
のです」
 もちろん歌の勉強、ニュー・アルバムの録音
が目的ではあるが、
「パリでは何を話していたって咎められること
はないし、どんな曲目であっても歌うことが許
される。香港の人たちは今、そっとして置いて
ほしいんですよね。もう十二分に問題は抱え込
んでいるわけですから、もし私が香港で何らか
の発言をすれば、彼らに迷惑を掛ける可能性が
全くないとは言い切れないでしょう。だからこ
そ私は、香港を離れたのです」
 と呟くと、彼女は膝小僧の上にキチンと揃え
られたか細い指先へと、ゆっくりと視線を落と
して見せた。
難民=Aそして異邦人(エトランゼ)。意味は違えども彼女
は常に異邦人であり続けた。いや、あり続けざ
るを得なかったのかも知れない。
「小学生の頃はいじめられっ子でしたね。先生に
鞭で叩かれたことも何度もありましたし。
元々台湾に住んでいた本省人は、海峡を挟んだ
福建や広東省からやってきた人々には寛容なの
に、北京から移り住んだ国民党員に対しては心

底憎しみを感じていましたから。そんな時期に
大好きな歌を口ずさむと、フッと気が楽になっ
たのを今でもはっきりと覚えています。歌って
いる時だけは、辛い現実から逃避することが出
来たからでしょうね」
 台湾出身のテレサの両親はいわゆる外省人、
第2次大戦以降に定住を果たした新参者である。
蒋介石率いる国民党の陸軍中尉であった父親は
河北省・大名府にあるケ台という名の小村に生
まれ育ち、山東省出身の母親とは写真だけの見
合い結婚で結ばれた。
「台湾には楽しかったと言えるほどの思い出は
殆どありません。教育、音楽、ビジネス、色々
な意味であまり勉強する機会を与えては貰えな
かったから。中国語だけですね。台湾で私自身
が身につけたものはとはと言えば」
 彼女は6歳の頃から一流のプロ手としての
活動を始め、10歳で台湾ラジオが主催した素人
のど自慢大会に優勝。16歳で香港からレコード
・デビューを飾るや否や母親を伴って、シンガ
ポールを皮切りにアジア各国を転々とする旅か
ら旅への生活を経験することになる。
「あの当時は仕事が入りさえすれば、それこそ
アジアの隅々にまで行っては歌っていました。
ベトナムにも'71年と'72年に行きましたよ。シン
ガポールのプロモーターが10人ほどの歌手を集
めて歌謡ショーを組むわけです。提岸(ティーン)というサ
イゴン(現ホーチミン市)近郊にあった華僑系
の村では映画館を借り切って公演をしましたが、
当時はベトナム戦争の真っ最中でしょう。夜間
外出禁止令が出ているにも拘わらず、ファンが
私をバイクの後ろに乗せてホテルまで送ってく
れたこともありました。それでも翌年の'72年に
訪れた時には反対に石を投げつけられちゃった
んですよ。戦局が悪化して、人心が荒んでいた
んでしょうね。南ベトナム解放戦線の若者から、
(これ以降、不明)


 さて、後半です。

ゼロ3-05.jpg


『あんな主催者の下では歌うな』といった類の
手紙を送りつけられたこともありました。当時
の私にはそれが何を意味していたのか十分には
理解出来なかったけれども」
 純粋に歌うことが好きだったひとりの少女が、
日には見えない国境線を越えたが故に、否応な
く国際政治の舞台裏を垣間見る破目に陥ってし
まう。私は無意識に彼女の古いレパートリーの
ひとつである『無情荒地有情人』という曲の一
節を脳裏に浮かべていた。
 「'75年に極めて中国的なアレンジを施した、
『小城故事』という作品を発表したのですが、
その曲が香港で大ヒットを記録し、上海に里帰
りする華僑が私のカセット・テープをお土産と
して大陸へ持ち帰って行ったらしいんです」
 中国では今もって部小平を遥かに凌ぐ知名度
を誇り、全球十億歌迷熱愛的巨星≠ニまで称
された彼女の人気は、この時期を境に怒濤の如
く中国全土へと広まって行った。
 「私の歌が中国で受け入れられたのは何と言っ
てもタイミングが良かったからでしょうね。特
に'76年という年は、毛沢東が亡くなり四人組が
失脚するなど中国にとっては歴史的な転換期に
当たっていました。それ以前の中国には流行歌
と呼べるようなものは江青が作曲したオペラ曲
ぐらいしかなかったわけでしょう。突然、流行
歌が入って来たものだから皆が飛び付いた、と
いうのが本当の所ではないかと私自身は考えて
います」
'83年にケ小平が推進した精神汚染追放運動で、
テレサの歌う『何日君再来』が槍玉に上がった
という事実は、皮肉にも彼女の大陸での圧倒的
な人気を内外に知らしめる結果ともなった。
「私は歌を通じて、ほんのささやかな幸せを聞
いて下さる方々に分け与えられることが出来れ
ばと望んでいるのです。歌によって少しでも気
持ちが安らげばと。私に出来ることはと言えば
それだけ。中国でのヒットにしたって、彼らの
心の奥底から湧き上がって来た現状を変えたい、
より良い生活を享受したいという強烈な想いが
まず先にあって、私の歌が後から付いて行った
だけに過ぎないんです。私の歌に何かを変えて


しまうほどの力があるとは思わない……」
 テレサの歌声に心酔したのは民主化を熱望す
る中国本土の人民≠セけではなかった。故郷
から遠く離れ、帰りたくでも帰れない世界中に
散らばっている華僑たちさえもが母国語で綴ら
れた純粋な流行歌の誕生に対し、惜しみない拍
手を送っていたに違いない。
「アジア全体に移住している華僑の人たちには
何度となく助けて頂きました。彼らは客家(ハッカ)だと
か閩南(ミンナン)といった民族の違いにこだわることなく、
お互いに助け合って生きているんです」
 バンコック、シンガポール、クアラルンプー
ル。何処の都市であれ中華街の路地裏へ、ソッ
と足を踏み入れてみれば良い。そこでは―世た
ちが頑なに耳を傾ける京劇の姦しい音曲と、故
郷の春花秋月に触れる機会に恵まれない若い華
僑たちが想いを託すケ麗君の歌声とが絶妙に絡
み合い、共存しているに相違ないからだ。
「たったひとつ国を選べと言われれば、私は台
湾を選びます。祖国ですからね。でも両親の故
郷でもある中国には、もっと良い方向へと変わ
って行って欲しいという気持ちを強く持ってい
ますよ。天安門事件が起きるまでは私も社会主
義は中国でなければ実現不可能だろうと、心情
的にはサポートをしていました。たとえ社会主
義体制であったとしても国民の幸福につながる
のであれば構わないのではないかと。それがあ
の事件で目を醒まさせられた。中国共産党は真
から変革を望んでいたわけではなく、ただ人民
を殺戮しただけじゃないかと。許せないですね.
絶対に。今は両親が台湾に逃げて来て良かった
と思います。彼らのお陰で私がいる。もし中国
にそのまま留まっていたとしたら、今の私は存
在しなかったでしょうからね」

ふたつの祖国の狭間で

 彼女は'83年の暮れから翌年初頭にかけて、東
アジア各国で開いた大規模なデビュー15周年記
念公演を最後に、アジアのステージからはプツ
ツリと姿を消してしまった。
「台湾でも基本的には'85年に引退しました。あ


れ以来台湾でテレビに出演したのは2回だけで
すし、取材も殆ど全部断わっている状態ですか
ら。私の場合は幼い時分からアジア各国を廻り
ながら歌い続けて来たでしょう。もうアジアで
やりたいことは取り敢えず、すべてやり尽くし
ちゃったっていう感じなんですよ、今は。これ
で十分だって」
30歳を過ぎたら、
「あまり公衆の面前には姿を現したくなくなっ
た」と照れ笑いを浮かべる彼女に、私は歌手と
してはこれからが最も充実した年齢に差し掛か
るのではないかとすかさず尋ね返した。
「もちろんレコードはこれからも出し続けます
よ。ただコンサートはね。あんまり上手じゃな
           ・・・ ・・・
いんですよ、私。日本でヤング・アイドルとし
てデビューした当初も、人前に立つと踊りの振
りに気を取られ過ぎちゃって歌詞をすっかり忘
れてしまったことがあったくらいですから」
 決して器用なひとではない。純粋に歌うこと
が好きだったひとりの女性が、歌が国境を越え
てひとり歩きし始めたことによって、何万人も
の聴衆を前に脚線美を披露することさえも求め
られるようになってしまった。
「ただ、日本の芸能界だけは少し事情が違うん
ですよ。デビュー自体が遅かったし最初の5年
ぐらいはあんまり売れなかったですから、もう
少しお仕事を続けてみたいんです。出来ること
ならば東京でコンサートも開いてみたいと考え
ています」
 確かに他の東南アジア諸国と比較すれば華僑
の影響力が圧倒的に小さい日本という極東の小
国では、自然発生的にアジア人歌手の手による
楽曲がそのまま大ヒットにつながるといったケ
ースは皆無に等しい。艶歌という日本独自の歌
唱スタイルを踏襲し、尚且つ日本語で歌うとい
った独特の戦略が求められる。歌謡曲ひとつを
取ってみても日本のアジア地域における特殊性
がうっすらと浮かび上がって来るではないか。
更にテレサの場合は日本語の持ち歌に北京語の
訳詞を付け、東アジア全体にヒット曲を還流さ
せるという、いまだかつて存在し得なかった新
しい潮流をも生み出した。


「いつの日にか中国大陸でコンサートを開くこ
とが私の最大の夢なのです。実は天安門事件の
直前にも北京と上海とを含む公演旅行を実際に
計画していました。招待状も沢山受け取ってい
ましたから。でも今は行きたくはないですね。
もし中国の民主化が今後順調に進んで行けば可
能性が拡がって行くとは思いますが、現体制の
ままではやっぱり無理でしょうね」
彼女の大きな両の瞳がうっすらと潤み、語気
に微妙な鋭さが加わった。
「ただ周辺の国々は何らかの形で中国の改革路
線を手助けして行かなければならないとは思っ
ています。中国が変わらなければ結果的には周
りの国々にしたって災難を蒙るわけですから」
 テレサの祖国≠ナある台湾にしても、
「人民解放軍が攻め込んで来たら、ひとたまり
もないですからね」と話す。
「台湾で唯一コンサートを開くとしたら国府軍
のためだけにやりたいと思っています。軍隊の
慰問ですね。中台関係の平和的な解決は私自身
も勿論強く望んではいますが、もしも両国間に
紛争が勃発した際には軍隊だけが私たち台湾人
にとっては頼みの綱ですからね。国府軍の兵力
は20万人、中国の人民解放軍は300万人。す
ぐに負けちゃうとは思いますけれども……」
 東京・赤坂。冷房の程良く効いたパチンコ屋
の店内から、有線のヒットチャートが途切れな
がらも白く輝く街路一杯にこぼれ出ている。「悲
しみと踊らせて」。大ヒットの兆しを見せ始め
たテレサの新曲が、強烈な日差しに顔をしかめ
ながらも忙しく往き来する会社員の耳元に、つ
かの間の潤いを与えている様子が良く判る。や
がてはこの曲も極めて上質な流行歌として数多
くの人々に愛され続けるに違いない。深夜のカ
ラオケ・スナックでOLの肩にしっかりと腕を
回し蛮声を張り上げている部長さんたちにだけ
ではない。今年分の刈り入れを終え、一服しな
がらようやくのことで手に入れた日本製のカセ
ット・テープ・レコーダーのスイッチに手を伸
ばす中国の農民たちの耳をも楽しませることに
なるのだろう。それがケ麗君という歌手に歌わ
  ・・・
れる流行歌の宿命でもあるのだから。   □


 2ページ目の大きな写真の左上の、テレサ・テンの紹介文は以下の通り。
Teresa Teng
テレサ・テン=ケ麗君(テン・リー・チュン)/1953
年台湾生まれ。13歳で台湾テレビの専属歌手となる。
その後活動の中心を香港に移し、'74年に日本デビ
ューを果たす。'80年代に入ると次第に中国大陸で
の人気が盛り上がり、'83年にそのブームが頂点を
迎えるが、中国当局の精神汚染追放キャンペーンの
対象となってしまう(現在は解禁)。同時に東南ア
ジア、香港、台湾での人気も最高潮となる。日本で
も「つぐない」、「愛人」そして「時の流れに身をま
かせ」と立て続けに大ヒットを飛ばし、'86年には
3年連続日本有線大賞、全日本有線大賞グランプリ
を受賞。天安門事件後からパリ在住。最新シングル
は「悲しみと踊らせて」(トーラス・レコード TA
DL7321)


posted by kewpie at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン
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