3人の好きな曲ベスト5もあり、それも面白い。
も悩んでいました。時々、
グチをこぼすので、私は彼
女を慰めたりしていました。
荒木 王さんがフジテレビ
で音楽番組を担当されてい
たころですね。
王 たまたま私の父親とテ
レサの母親が中国の同郷で。
お互いに親近感が湧き、距
離が一気に縮まったのです。
テレサからは「なぜ、日本
は同じ曲ばかり歌わせる
の?」「なぜ、私はミニス
カートをはかなければなら
ないの?」と何度も聞かれ
ました(笑)。
有田 台湾や香港などでは
すでに「大スター」でした
から、日本に来てドサ回り
やほかの歌手と相部屋にさ
れるような待遇に、複雑な
思いがあったと思います。
荒木 でもめげなかったで
すね。女性らしさやかわい
らしさより、強さを感じさ
せる人でした。
王 私もそう思います。
荒木 熱い人でもあった。
よくお酒の席で、テレサが
三木さんと議論をはじめる
んです。ある時は「愛のた
めに死ねるか」というテー
マで、いつまでも白熱する
ばかり。僕は
面倒くさく
て、両方の意
見に「そうだ
よね」と言っ
ていましたよ
(笑)。
王 こだわり
のある人でも
ありました。やはり荒木さ
んと三木さんがつくられた
「愛人」が発売された'85年、
NHKホールでのコンサー
トの演出を任されたのです
が、彼女はピリピリしなが
ら、髪型から衣装まで全部
チェックしていました。
有田 どちらも彼女らしい
話ですね。
(写真)'74年、テレサの日本デビューは「アイドル」としてだった
「もう一度日本に行きたい」
王 テレサの人生で境目と
なったのは'79年のパスポー
ト事件だったと思います。
有田 同感です。偽造パス
ポートを使って日本に入国
したとされ、国外退去処分
になりました。
王 直後に芸能リポーター
などから激しく責め立てら
れて、日本に不信感めいた
ものを持ち始めていました。
有田 ショックだったでし
ょうね。
王 テレサに罪を犯す意識
はありませんでしたから。
当時の台湾は、ピザの発給
にすごく時間がかかったそ
うですね。
有田 台湾は国際的に孤立
していましたから、あのこ
ろは海外渡航手続きが一苦
労でした。そこで正規の手
続きを踏まずに発給された
パスポートが、海外で仕事
をする人間に流行していた
んですよ。テレサは、イン
ドネシアで「いい方法があ
る」と、彼女の大ファンか
ら声を掛けられ、パスポー
トを買った。しかも偽造で
はなく、インドネシア政府
が発給したパスポートでし
た。そんなものが入手でき
てしまう時代でした。
王 国外退去処分を受けた
あと、電話で彼女と話した
ところ、「便宜を図ってくれ
るというから、お金を払っ
た」と言っていましたね。
有田 そう。単に利便性を
求めただけでした。しかし、
日本への再入国が認められ
たのは、5年後の'84年です。
荒木 私がテレサと出会っ
たのは、その後でした。当
時の彼女はちょっと不遇で
したね。ポリドールを離れ
た後、手を挙げたレコード
会社は少なかった。パスポ
ートの件があったためでし
ょう。最終的には舟木さん
のトーラスに所属しました。
王 パスポート事件前はテ
レサから政治的な部分を感
じたことは一度もありませ
んでしたが、事件後は少し
変わったように見えました。
有田 事件後は、軍の慰問
への協力を条件に、台湾へ
帰国しました。当時はまだ、
台湾と中国の両岸対立が激
しかった時代。台湾ではテ
レサの人気を政治的に利用
しようとする動きも出てき
た。ただし、中国本土でも
改革開放路線が始まり、テ
レサの人気が出てくるんで
す。彼女のカセットは闇で
出回ったりしていました。
荒木 中国では「昼はケ小
平の旗を振り、夜はケ麗君
(テレサの母国名) の歌を聴
く」と言われていました。
有田 そうなると、中国政
府も、逆にテレサを政治宣
伝に利用しようと考える。
上海でのコンサートを企画
して、香港でテレサ側に持
ち掛けていたんです。
王 そうでしたか。
有田 だけど、'89年の天安
門事件の際、香港での民主
化運動に参加。そのため中
国本土に入れなくなった。
王 その直前の頃だと記憶
していますが、シンガポー
ルにいたテレサから電話が
入ったんです。テレサは「怖
い」と言いました。北京の新
聞記者から、シンガポール
の自宅に電話が入ったそう
なんです。「なぜ電話番号が
分かるのか」と心配そうで。
有田 「中国青年報」の記
者ですね。
王 本人の知らないところ
で、何かが暗躍している感
じを受けました。
有田 彼女自身はイデオロ
ギーより、純粋な気持ちで
行動しただけなんですけど
ね。スパイ説も囁(ささや)かれまし
たが、あり得ないですよ。
荒木 うん、ありっこない。
有田 台湾のスパイだとい
う説は、台湾の情報軍人の
証言が日本の週刊誌に載り、
それが台湾と香港の週刊誌
にも転載されたのですが、
私がその軍人に2度会って
確かめたところ、あっさり
撤回しました。
王 パリで暮らし始めたの
は'89年からでしたね。
有田 テレサは私に「周囲
が知らない人ばかりのほう
が、心が安定する」と話し
ていました。
荒木 でも、日本のことは
好きだったと思います。パ
リで会った際には「もう一
度日本に行きたい。先生、
どう思う?」と助言を求め
られました。僕は「みんな
に求められているのだから
来ればいい。嫌になったら
パリに戻ればいいじゃない
か」と言いました。テレサ
は日本の風土や食べ物も好
きでしたから。
王 日本食は好きでしたね。
荒木 一時期は僕の顔を見
るたびに「ふぐ、ふぐ、ふ
ぐ!」と口にしていました。
有田 最後の来日は'94年の
10月。仙台市でNHKの「歌
謡チャリティーコンサー
ト」の公開収録に臨むとい
うので訪ねたところ、テレ
サの体調はリハーサルにす
ら出られないほど最悪でし
た。控え室で横になってい
たのですが、相部屋の女性
歌手たちに親切にされてい
たのが印象的です。
王 テレサは、同性の歌手
から慕われました。テレサ
と仲良くしていると、ほか
の女性歌手から羨望のまな
ざしを向けられたようです。
有田 亡くなったのは、そ
の翌年の5月。フランス人
の恋人との旅行先であるタ
イのチェンマイで。42歳で
した。
荒木 この時も突然だった
せいか、暗殺説まで流れま
した。ぜんそくによる発作
を起こした後の応急処置が
悪かったそうですね。
有田 せんそくは持病では
なく、パリで吸い始めたタ
バコがよくなかった。
荒木 以前は、僕や三木さ
んがレコーディングスタジ
オの外でタバコを吸って戻
ると、「タバコ吸ってきた
んでしょ」と睨まれたくら
いだったのに。天安門事件
のあと、ちょっと精神的に
参っていたのかなあ……。
王 訃報を受け取った時
は、言葉を失いました。
有田 彼女の死後、パリの
住まいを訪れたのですが、
部屋に自筆の歌の詞が残さ
れていた。まだまだ、やりた
いことがあったのでしょう。
王 非常にめまぐるしい、
流転の人生を精一杯生きた
人だったと思います。
荒木 彼女の人生が幸せだ
ったかというとわからな
い。いわゆる普通の、細く
長い幸せはありませんでし
たから。ただ、彼女にとっ
ての幸せな瞬間は、間違い
なくあったと思うんです。
テレサ・テンのベスト5
荒木とよひさ
1「恋人たちの神話」
(1988年)
2「時の流れに身をまかせ」
(1986年)
3「別れの予感」
(1987年)
4「つぐない」
(1984年)
5「愛の陽差し〜アモーレ・ミオ〜」
(1992年)
@は僕が本当に書きたかっ
たことを詞に託せた曲。テ
レサに一番歌わせたい歌で
もありました。セールスの
良し悪しなどは別問題です。
Aは作曲の三木たかしさん
と一緒に一番苦労してつく
り、一番花開いた作品。自
分なりのレトリックでつく
ったのがBです。Cはテレ
サとの初めての仕事。人生
観が変わりました。Dは三
木さんが「一番好きな歌」と
言ってくれた。アモーレは
イタリア語
で「私の恋
人」。以前か
ら一度は使
ってみたい
言葉でした
王 東順
1「時の流れに身をまかせ」
(1986年)
2「つぐない」
(1984年)
3「空港」
(1974年)
4「ふるさとはどこですか」
(1977年)
5「蘇州夜曲」
(中国語版)
@はやっぱり最高の名曲で
しょう。カラオケでも歌っ
てみたいのですが、難しく
て、とても歌えませんが。
Aは良い歌であるのはもち
ろん、音域の高低の幅がさ
ほど広くないため、私でも
歌えます。カラオケの席に
なると、必ず歌います。B
はアイドル路線ゆえに本人
が悩んでいたデビュー曲
「今夜かしら明日かしら」
に続く2枚目。彼女の良い
ところが引き出されまし
た。Cはテレサが自分自身
に問い掛けているような
歌。特別心を打たれる歌で
す。Dは母国語である中国
語で歌った歌。これが、ナ
ンバーワンだと思います
有田芳生
1「時の流れに身をまかせ」
(1986年)
2「別れの予感」
(1987年)
3「獨上西樓」
(中国語版)
4「私の家は山の向こう」
(我的家在山的那一邊)
(中国語版)
5「梅花」
(中国語版)
@は携帯電
話の着信音
にしていま
す。中国語
バ―ジョン
の「我只在
乎你」。Aは
自著「地球の歩き方 ベト
ナム」を取材していた当時、
ダナンの海岸で2時間聴き
続けました。Bテレサが好
きだった中国語に曲が付け
られたもの。アルバム「淡
淡幽情」のなかの名曲です。
Cは天安門の学生を支援す
るコンサートで歌いまし
た。Dはチェンマイで1995
年に亡くなる前、最後に歌
った曲なんです。台湾の国
歌とも言われています。
あらき・とよひさ/'43年、中国・大連市生まれ。日大芸術学部
在学中から音楽活動を開始し、'72年に「四季の歌」で作詞家
デビュー。テレサには「つぐない」「愛人」など13作品を提供
おう・とうじゅん/'46年、東京都生まれ。'64年、フジテレビに
入社。「なるほど!ザ・ワールド」「クイズ!年の差なんて」など
のプロデューサーを務め、テレサの日本公演の演出も手掛けた
ありた・よしふ/'52年、京都府生まれ。ジャーナリスト。民主
党参院議員。取材テーマは多岐にわたり、'05年、「私の家は山
の向こう〜テレサ・テン十年目の真実」を上梓
週刊現代(2012-12-8)より