2023年05月15日

週刊現代 2023年5月6-13日合併号〜雑誌等の記事(69)

 生誕70周年の、その年の命日に因んだ記事と思われます。

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(発売後間もない雑誌ですので、各ページのショットは解像度を押さえています。拡大表示はできません。)

 ただし、最初のページには「追憶の歌姫 第2回」とあるので、シリーズ記事の第2回にあたり、命日に合わせてテレサ・テンを取り上げたことだと思います。その点には感謝です。

 全部で8ページあります。

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追憶の歌姫 第2回
アジアに響いた天使の歌声
テレサ・テン
あなたの色に染められて

私たちの心を撫でながら、やさしく潤す「アジアの歌姫」生誕70周年を迎えた今、ああ、彼女の声をまた聴きたい。

(写真キャプション)
'74年2月、日本でのデビュー曲『今夜かしら明日かしら』のプロモーションをするテレサ
 私は初めて見る写真です。しかも、『今夜かしら明日かしら』のプロモーションに伴う写真というデータもあり、価値のある写真です。

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情感と哀愁がこもる、
心地よい声だった


息の荒さが
目立たない

 「彼女の夢は、中国にある両親の故郷で、地元の人向けに小さなコンサートを開くということでした」
 テレサ・テンを日本でデビューさせ、「日本の父」と呼ばれた元トーラスレコード社長の舟木稔さんが、そう振り返る。
 台湾生まれのテレサが、舟木さんの交渉に応じて日本でデビューしたのは'74年のこと。当初はなかなか売れず、大ヒットを飛ばしたのは'84年になってからだ。
 「この年の1月に『つぐない』が発売されると、大阪や九州の有線放送でじわじわと火がつき、日本有線大賞を受賞しました。その頃は香港に住みながら、年に数回来日する程度でしたが、彼女はヒットに喜び、とても満足していました」(舟木さん)
 翌年の『愛人』もヒットし、NHK紅白歌合戦に出場すると、'86年の『時の流れに身をまかせ』がまたも大ヒット。史上初めて3年連続で日本有線大賞・全日
(ここまで右ページ本文)

(ここから左ページ本文)
本有線放送大賞のグランプリを受賞する。日本中がテレサ色に染まるような「黄金の3年間」となった。
 彼女の歌が多くの人を感動させた秘密はどこにあるのか。舟木さんが語る。
 「天性の声質に恵まれていました。情感が豊かで、耳に心地よく響き、聴く者の心を癒やして魅了します。やや舌足らずな歌い方が、日本人には出せない哀愁を感じさせもしました」
 彼女の努力にも、その秘密がある。
 '84年から歌い方が変わったのだ。'83年の香港でのコンサートが成功した後、イギリスへ渡って休養しながら、本格的にボイストレーニングを行った。
 喉をいためずに長時間歌える新たな歌唱法を身につけたのだ。それにより、息継ぎが楽になって息の荒さが目立たなくなり、歌詞が自然に流れていくような歌い方に変わったという。

(右ページ上写真キャプション)
日本で9年ぶりのコンサート('85年)
NHKホールでの日本公演。NHK紅白歌合戦の初出場も果たしたこの年のコンサートが最後のその公演となった

(右ページ下写真キャプション)
舟木稔さんはテレサの「日本の父だった
'80年代、『つぐない』などを出した絶頂期に舟木さんと。「彼女と出会えて本当に運がよかったです」(舟木さん)

(左ページ囲み記事)
テレサ・テン「歌姫の秘密」♪♪♪
@努力のボイストレーニング
(その1)アメリカで('71年〜)
語尾が上がるような、甘ったれた歌い方から、スローテンポの大人らしい、優しく囁くような歌い方へ変わった
(その2)イギリスで('84年)
ロンドンでイギリス人の声楽の先生・アダムさんと出会い、トレーニングを受ける。それにより、歌いながら息継ぎをするのが楽になった。喉をいためることなく、長く歌い続けられる歌唱法へと変わった

A天性のシルキーボイス
ハスキーボイスとは対照的な「シルキーボイス」。ツヤのあり滑らかな、透明感のある声。濁音の使い方がうまかった

B歌詞を深く理解する
歌詞の意味を理解し、聴き手にそれをわかってもらうように歌った。意味を完全に消化して繰り返し朗読していた

(左ページ上写真キャプション)
『つぐない』『愛人』を熱唱('85年)
NHKホールでのコンサートでは、オープニング曲の『空港』から、ラストの『愛人』までを熱唱した

(左ページ中写真キャプション)
'83年、香港のコンサートが大盛況で取材を受ける
年末に香港での大規模なコンサートを成功させた際に、楽屋で記者からの質問に答える


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子守唄がわりに、
中国のオペラを聴いて


原体験は
笑顔で手拍子

 「幼い頃から歌が大好きで、彼女が歌うと大人たちが笑顔で手拍子してくれる。その嬉しさが原体験だったと本人から聞きました」(著書に『華人歌星伝説 テレサ・テンが見た夢』があるノンフィクション作家の平野久美子さん)
 テレサは'53年、台湾・雲林県の農村で、中国本土で結婚した両親の長女として生まれた。本名はケ麗筠(デンリーユン)(中国語の芸名はケ麗君(デンリーチュン))。3人の兄と1人の弟に囲まれて育った。
 平野さんが続ける。
 「河北省や山東省の伝統的な歌劇の劇中歌、いわゆるオペラを母親が子守歌がわりに歌い、それを聴いて育ちました。彼女の感情の込め方は歌詞の意味を大事にする伝統歌曲に由来する」
 実際、テレサの実弟のジム・テンさんは、「詞をもらったら意味を完全に消化して、人に伝わるようになるまで繰り返し朗読していました」と語っていた。
 '74年のデビュー曲『今夜かしら明日かしら』以来、大きなヒットに恵まれなかった'70年代は、地道に営業を続ける日々を送った。
 酔客からヤジを浴びせられて、楽屋で泣いたこともあったという。
 『ふるさとはどこですか』をリリースした'77年には、雪深い福島・三島町を訪れ、人々の温もりに安らぎを感じることもあった。
 だが、'79年に事件が起こる。偽名のパスポートで日本に入国しようとして国外退去処分が下されたのだ。日本のレコード会社は契約を終了させる一方、舟木さんはテレサを支え続けた。

(右ページ上写真キャプション)
デビュー前はプロモーションに励んだ('74年)
'74年に『雪化粧』、'75年に『女の生きがい』を発表。「良い曲はあるけれど、大ヒットが出なかった」(舟木さん)

(右ページ下右写真キャプション)
福島・三島町でプロモーション('77年)
三島町内で雪道を歩き子供たちの前で歌う

(右ページ下左写真キャプション)
新宿音楽祭で伊藤咲子らと受賞('74年)
新人歌手の音楽祭で伊藤咲子(前列左から2人目)とテレサ(3人目)

(左ページ右囲み記事)
追憶のテレサ・テン
右向き三角11953(昭和28)年
台湾西南部の雲林県で生まれる
右向き三角11963(昭和38)年
ラジオ局主催の歌唱コンクールで優勝
右向き三角11966(昭和41)年
台湾テレビの専属歌手になる。翌年レコードデビュー
右向き三角11971(昭和46)年
香港でレコード製作を開始
右向き三角11974(昭和49)年
日本デビュー。第2作「空港」で日本レコード大賞新人賞を受賞
右向き三角11979(昭和54)年
旅券法違反で国外退去処分を受け、渡米
右向き三角11980(昭和55)年
台湾に帰郷。中国大陸でも大ブームに
右向き三角11984(昭和59)年
日本での活動を本格的に再開し、『つぐない』が大ヒット
右向き三角11985(昭和60)年
NHK紅白歌合戦に初出場
右向き三角11989(平成元)年
5月、香港で行われた中国の民主化支援コンサートに参加。6月に天安門事件が発生し、パリに移住
右向き三角11995(平成7)年
タイ・チェンマイで、気管支ぜんそくの発作による呼吸困難で死去、享年42

(左ページ左囲み記事)
売り上げ枚数ベスト10
順位・楽曲・枚数(万枚)・発売日
1位 つぐない 44.2 '84.1.21
2位 時の流れに
   身をまかせ 33.4 '86.2.21
3位 愛人   29.9 '85.2.21
4位 別れの予感 14.5 '87.6.21
5位 空港   14.1 '74.7.1
6位 雪化粧  8.7 '74.10.21
7位 ふるさとは
   どこですか 6.6 '77.2.1
8位 恋人たちの神話 5.3 '88.1.25
9位 女の生きがい 4.8 '75.3.21
10位 あなたと生きる 2.6 '77.8.1

オリコン「1968-1977 ORIKON CHART BOOK」記載のシングルの推定売り上げ。世界での売り上げ枚数では、『時の流れに身をまかせ』は200万枚にも及ぶ大ヒットになった



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努力家で
歌に貪欲、
芯が強かった


人生全てが歌に反映されて
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 歌手・ジュディ・オングさん
------------------------------------
 テレサが15歳の時に台湾で初めて会いました。
 当時18歳の私が日本で出した歌『さようなら17才』を彼女が中国語で歌っていて、台湾で人気になっていたからです。
 実際に会ってみると可愛らしい少女で、その時「私も日本に行くのよ」と話してくれました。
 日本で一緒に仕事をした'80年代後半には、「ボイストレーニングをしたら、2時間以上歌っても疲れなくなった」と言うのです。
 そのトレーニングビデオをもらって見たところ、舌を前に伸ばして「え〜〜〜」と声を出したり、お腹で「はっ、はっ、はっ」と呼吸していました。彼女がそのやり方を教えてくれて楽屋口の廊下で一緒にやったこともありました。
 努力家であると同時に、意志と芯が強い人でもありました。'81年には、不動産業を営む大財閥の御曹司と婚約発表をします。
 ですが、婚約者の側から「結婚したら歌手生活から完全に引退してほしい」と言われてしまい、その要望には応じられなかった。歌を続けたいという意志を曲げなかったんです。
 様々な歌にも貪欲に挑戦していました。コンサートでスティービー・ワンダーの曲を歌った時には、ヘアスタイルも編み込みにして真似ました。「そんなことまでよくやるわね」と話しかけたら笑っていましたね。
 私生活でいろいろあっても歌でそれを乗り越える。人生の辛さや悲しみ、喜びが彼女の歌には反映されているんです。素晴らしい! 
 彼女は本物の歌姫です。

(右ページ上写真キャプション)
1年8ヵ月ぶりに来日('91年)
一次、死亡説が流れたこともあったが、'91年に来日すると年末の紅白歌合戦に出場した

(右ページ下写真キャプション)
チェンマ(以下読み取れず)サイ(以下読み取れず)
テレサが通っていたそば屋には、"the best noodie soup"などと書いたサインが残る

(左ページ上写真キャプション)
伊東四朗のラジオ番組に出演する('91年)
伊東四朗のラジオ番組(文化放送)にゲスト出演。3年後の'94年、仙台市でのコンサートが最後の来日となる

(左ページ右写真キャプション)
スイートルームに滞在中に亡くなった
ぜんそくの発作で死去した時に滞在した、インペリアルメーピンホテルのスイートルーム

(左ページ左写真キャプション)
台湾の金宝山墓園に眠る
台北から車で北に2時間ほどにある金宝山
墓園。銅像と花壇とともにテレサは眠る



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謎が多い急死
謀殺説も

 「'80年代の中国では『昼間はケ小平、夜はケ麗君を聞く』と言われたほど、中国でも絶大な人気を誇りました。闇市場ではテレサの音楽テープが大量に出回っていたんです」(ジャーナリストの吉村剛史さん)
 「アジアの歌姫」となったテレサは、'95年5月8日、気管支ぜんそくの発作による呼吸困難で突然亡くなった。両親の故郷でコンサートを開くという夢は叶わなかった。
 「死因については今も謎が多い。天安門事件以降、彼女が中国に失望して台湾独立を口にしたことで目をつけられ、何者かに謀殺されたという説もあります」(吉村さん)

(写真に添えられたテレサ・テンのことば)
私が歌う歌は
大好きなものばかりです
好きだからこそ感情を込めて
歌うことができるんです

(写真キャプション)
'89年の天安門事件によりテレサが中国で歌う夢は潰えた。中台関係の狭間で政治に翻弄された生涯でもあった


 本文は、5/12(金) 7:03配信のYahoo!JAPANニュースに全文が掲載されました。ここでは雑誌に合わせ、テレサ・テンの中国語の漢字を加えました。

 信頼できる人たちへの言葉を使っており、内容としては信頼のできる、良い記事であると思います。


posted by kewpie at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン
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