その1999年1月号にテレサ・テンの記事が掲載されています。
ケ麗君(デン・リーチュン)
テレサ・テンがタイのチェンマイで急死してからすでに3年が過ぎさった。
とはいえ、彼女の存在はいっそう輝きを増し、その曲は世界中で歌い継がれている。 音楽活動から身を引いた晩年の3年間より、亡くなってからのほうが、CDやテープの売り上げを伸ばしているし、台北市郊外の金宝山にある彼女の墓地には、各国から墓参のツアー客が引きも切らずにやってくる。それだけではない、 インターネットで検索をすると、 熱烈なファンが開いた「テレサ・テン ホームページ」や関連情報が、たちどころに40〜50も現れる。
日本では「テレサ・テン」という英語名で 親しまれていたが、出身国の台湾を始め、 世界の華人社会では、北京語の芸名「ケ麗君」 (デン・リーチュン)として君臨していた。彼女は私たちの想像をはるかに超えたアジアのスーパースターであり、台湾、香港、大陸のアイドルたちが多かれ少なかれ影響を受けたアジアンポップスの元祖≠セったのである。
テレサ・テンは'53年1月29日、台湾●●の
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だったため、共産軍との内戦に負けた蒋介石が'49年台湾へ敗走すると、それにしたがうように河北省から移り住んだ。
彼女は、歌の好きな母親の影響もあって、小さいころからごく自然に、両親の故郷の民謡や中国の伝統歌謡に親しんできた。11歳のときに出場した民謡コンクールの優勝がきっかけで、13歳から本格的な歌手生活を始める。
歌がなによりも好きだったことに加え、一家の苦しい経済事情も少なからず関係していたようだ。大人顔負けの歌唱力をもつ、愛くるしい笑顔の少女は、デビューを果たしたとたんにスタアの階段を駆け上がっていく。14歳のころ吹き込んだLPでは、懐かしの'60年代ポップス(「情熱の花」「月影のナポリ」 など)やラテンのスタンダード(「キエン・セラ」「ある恋の物語」など)、和製ポップス(「真赤な太陽」「恋をするなら」など)、リズム感抜群に歌いこなしている。本人が亡くなったことで、こうした当時の貴重な録音盤が手に入るようになったのは皮肉なことではあるが。
'70年代になると、シンガポール、香港に続き、'74年、念願の日本デビューを実現させた。その年、2作目の「空港」が大ヒットとなり、レコード大賞新人賞を受賞する。順風満帆に見えたものの、'79年には、彼女が不用意に使った偽造パスポートが発覚し、国外退去となってしまった。それから5年後、'84年に「つぐない」を歌って再デビュー。いきなりミリオンセラーの売れ行きを記録した。その後も日本有線大賞、全日本有線大賞を2年連続で受賞、紅白歌合戦に出場するなど、アジアのスーパースターの名に恥じない活躍ぶりを続け、「愛人」「時の流れに身をまかせ」「別れの予感」など、おなじみの代表曲を世に送り出している。
'80年代前半の黄金期に、彼女は北京語で「淡淡幽情」という傑作アルバムを発表した。現代の作曲家がメロディーをつけた宋代の古詩は、彼女が歌ってこそ、千年の時空を超えてよみがえったのである。
テレサ・テンが残してくれた曲を聴いて今さらながら驚くのは、心を癒やす優しく透明な声、リズム感のよさ、巧みな節回し、そして叙情性にあふれた表現力だ。どんな言葉で歌っても明快な発音が物語性を高め、人々の心に印象深く染み込んでくる。繰り返し聴いているうちに「ノスタルジア」の意味がわかるようにもなる。過去の苦渋を取り去り、心地よい思い出に浸らせてくれる至福のひとときが訪れるからだ。これは、天性の才能でもあり、努力のたまものでもあるといえるだろう。
生前、テレサ・テンにパリでインタビューをしたことがある。当時、彼女は天安門事件で受けた心の傷を癒やすかのように、無心にフランス語を習い、週末には小旅行へ出かけ、作詞にいそしんでいた。
「作曲もしたいんですよ、自分で。でも難しい……。だから、一生懸命勉強しているんです。パリにこうしているのは逃げてきたわけじゃない。 中国へ帰るための準備です。だからもっと勉強しないと」
なにに対してもまじめに取り組む性格が、発言のはしばしに感じられた。亡くなったあとで、自作詞が披露されたが、彼女はまだまだ手を入れて、自分で曲をつけて歌いたかったろうに......。 テレサ・テンが、日本語で吹き込んだ曲は 260あまりになるが、日本生まれのスーパーヒットを、さらに北京語や広東語で歌って世界中に広めた功績は、もっと評価されてもよいのではないだろうか。このかけがえのないスーパースターは、いまも国境を越えて生き続けているのだから。
●緊急情報 テレサ・テンの日本デビュー25周年を記念して「スーパー・ベスト・コエクション」と「カバー・ベスト・コレクション」の2枚が'99年2月10日にポリドールから発売される。価格は3,059円(税込)。/blockquote>
誰が書いたのか分からないのですが、左上に「徳間莎ケ」という氏名とも思えるものが見えます。